「ダンス」という世界共通言語と21世紀の可能性について
このせまい地球上には数千の言語があると言われ、それは世界中に無数のステキな文化がある証明であると同時に世界中の人たちとの意思疎通な困難さの原因でもあります。
例えばある人Aが英語を勉強し、がんばってネイティブなみに話せるようになったとします。
「わーい英語を習得したぞ!世界共通語が話せるようになったぞ!」喜びいさんでAの周りにいる外国人に話しかけますが、日本で一番多いアジア圏の外国人はあいにくあまり英語が話せません。
コンビニや居酒屋で働いているベトナムの人たちは英語よりも日本語の方をうまく話す場合が多いです。Aは大学に行って留学生に話しかけますが中国人、韓国人留学生はまあ日本語がお上手!
しばらく大学のキャンパス内を歩くと西洋風の顔立ちをした留学生に出会いました。英語で話しかけると彼はなんとアメリカ人!Aはうきうきでアメリカ人留学生と友達になります。彼らは新宿や秋葉原に遊びに行くような仲になりますが、ある日そのアメリカ人留学生はこう言います。
「その...君の英語はとてもうまくて聞きやすいんだけど、悪いんだけど僕はもう少し日本語で話したいな...せっかく留学前に日本語を勉強して今日本にやってこれたんだから。」
Aは少しショックを受けます。しかしよく考えるとAは自分が英語を話して練習したいことばかり考えていて、そのアメリカ人留学生が日本語を話したがっていることに気づいていませんでした。
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上の恣意的な例え話(笑)で私は何を伝えたかったのでしょうか?
それは英語を話せれば世界中どこでも話せる。英語さえ話せば完璧だ、という日本にままある価値観に「必ずしもそうではないよ」と異を唱えたかったのです。私は英語を準ネイティブのレベルで話せますが英語のみではなくスペイン語、中国語、ベトナム語を勉強しています。数千の言語の中ではほんの少しですが。
言語勉強はとても疲れるし、いざその言語を習得してもその言語を実践で自分が使える環境にいるか、という問題があります。
この世界を数千の言語が埋めつくしていることを考えると途方もない気持ちになります。
しかし、この世界には言語の壁を超えて世界中の人々に伝わるものがいくつか存在します。
まず代表的なものでいうと「スポーツ」。自らの肉体や技術を極限まで鍛えあげたもの同士が競い合う様は多くの人に興奮と感動をもたらします。オリンピックなどはその代表例です。
また他にも「音楽」などがあります。歌詞がついてる「歌」などは歌詞の理解度の差が感動度の差につながったりするので「言語の壁」を超えきってはいないかもしれません。
そして次の例が本日私が紹介したい「ダンス」という例です。まず下の日本のTwitterで11万いいねされた動画をご覧ください。
ウガンダの男の子にほんの少し踊りを教えると、すぐにできてしまった図。ブレイクダンスがパリ五輪種目になる話があるけど、ウガンダ含むアフリカの少年を軽く鍛えたら金メダル有力候補になりそ。知らんけど。
— セキ ヤスヒサ☁ (@Campaign_Otaku) 2019年3月18日
pic.twitter.com/CsISjLKtAV
...やばいリズム感とグルービングですね、しかもめっちゃくちゃ楽しそうに踊っています。笑顔が素敵ですね。コメ欄も絶賛の嵐です。一応このツイを訂正しておくと、これはこの女性がこの子どもに振り付けを教えたのではなく、現地の子どもがこの振り付け師の女性に踊りを教えて一緒に踊っているそうです。
↓のツイート
調べなおしたら、そのようです。振付師が現地の少年から学んだようです。
— セキ ヤスヒサ☁ (@Campaign_Otaku) 2019年3月18日
まあそうですよね、ダンス少しやってた人なら分かると思いますが、さすがにこのリズム感、グルービングを普段ダンスに慣れ親しんでない子どもに教えて、できるようになった、というエピソードには無理があります。
このアフリカのウガンダの1人の少年のダンスが海をわたり日本のTwitterで大きく拡散される。多くの日本人が彼の気持ちいいダンスに心惹かれたわけです。これが身体芸術、身体表現としてのダンスは言語の壁を悠に超えるということの証しです。
個人的に21世紀はダンスの世紀になると思います。なぜならインスタグラムなどの画像、映像主体のSNSと相性が良いから、インターナショナルに拡散されるから、音と一緒に体を動かすのは楽しいから、などの理由があります。
今の小学生は学校でダンスの授業をやります。またブレイクダンスが2024年のオリンピックの競技になるという話も出てきています。(これについてはまた書きます。)
ダンスが主役の時代はもうそこまで来ている!!(...と思います)
ニュージーランドの女性首相が銃乱射事件の追悼式典でとった行動とは。我々はいつも手遅れになってから気付く
イスラム教徒への無差別の銃乱射事件。亡くなった50人(17日時点の情報)の方々へ追悼を表し、アラーの審判の日まで安らかにお眠りになることをお祈りいたします。
今回のニュージーランド史上最悪の銃乱射事件についてニュージーランドの人たちは、政治家はどのように反応しているのか、Twitterの私のTLに流れてきた印象深かったものを紹介します。ニュージーランドの若き女性首相ジャシンダ アーダーンが被害者の追悼に来たときの1分半ほどの映像です。
New Zealand Prime Minister Jacinda Ardern visiting a makeshift memorial at the Kilbirnie Mosque.
— StanceGrounded (@_SJPeace_) 2019年3月17日
Look at how she holds and consoles them. With so much love. This is what you call a LEADER.
Retweet ❤️ pic.twitter.com/4XMJXYtZZn
ニュージーランド首相ジャシンダ アーダーンがモスクでの追悼式に来ていた。彼女が傷ついた人々を抱きしめ、慰める姿を見てくれ。これこそがリーダーというものだ。
彼女はイスラム教徒ではないですがヒジャブを被り追悼に参加しています。それは尊敬の念の表明と同時にニュージーランドはムスリムを拒絶しない、多様性の側に立つことの世界へのメッセージになりえます。アメリカでトランプ大統領が、日本で安倍総理大臣が、その他諸々の国のトップがマイノリティの衣装を被り、追悼を行うような事があるでしょうか?私にはあまり想像できません。
上記の映像は美しいものでありますが、しかしこれで美談の如く終わらせてはいけません。下記のツイートをお読み下さい。
I used to assume that people didn’t quite see the danger of casual hate speech against Muslims, and how it has been racialised.
— Nesrine Malik (@NesrineMalik) 2019年3月18日
I no longer believe this to be the case. Politicians and the media know exactly what they are doing. My column today.https://t.co/VuC4HPwNgz
私はイスラム教徒に対してカジュアルに行われるヘイトスピーチが、それがどのように人種差別を固定化していくのか、という事の危険性を人々が認識していなかったのではないかと思っていた。
政治家やメディアはムスリムへのヘイトが溜まっていくのを知りながら放置していた。
大量殺害事件が起こってからでは遅いのです。我々はいつもこのような事件が起こってからヘイトスピーチを、差別を反省します。マイノリティへのヘイトスピーチは今世界中に、そして日本にもあります。これはニュージーランドだけの問題ではなく、世界中みんなの問題であると考えます。